出展:埼玉県ホームページより
 高坂丘陵地区のほとんどが「岩殿丘陵」(南比企丘陵ともいいます)にあり、宅地造成後も良好な自然環境にあるため指定解除もされず、桜山台の一部を除くと、この地域の皆さんは「県立自然公園」内で暮らしていることになります。
 高坂丘陵地区はほとんどが岩殿丘陵の東端に位置します。
 出展:むさし緑園都市高坂ニュータウン開発計画書より
 本地区の位置する比企丘陵は、荒川、越辺川に囲まれた地域に広がる丘陵です。 松山台地、都幾川平野などにより、南北の丘陵に分けられ、標高50~80mで傾斜のゆるやかな北比企丘陵と、標高100m前後で傾斜も急な南比企丘陵に分けられています。
 本地区は、南比企丘陵の東端部に位囲し、地形はほぼ西高東低てす。地区内の比高差は約53m、斜面傾斜角は7~10度くらいてすが、一部には35度以上の急傾斜地もみられます。九十九川と越辺川にはさまれた地域にあり、一部は越辺川流域ですが、 概ね九十九川の流域となっています。
 地区内に入り込んている谷戸は規模の大きいものではなく、西方の物見山(標高35.6m)から辿なった尾根を頂点に、東西方向に呉器谷、南東方向に児沢(チゴサワ)、地区西側の千年山(標高80m)よりの中丸谷が主な谷筋となっています。その長さは1 km程度で、水系としては小規模なものてす。勾配は1/33以下て、非常になだらかです。

東松山市の地質

 出展:東松山市文化財保存活用地域計画(2024年3月発行)より
 比企丘陵の地層は、日本海拡大末期に堆積したもので、海底地すベリの痕跡やタービダイト(海底地震などに起因して発生した混濁流で運ばれた堆積物)の存在など、大規模な地殻変動があったことを示しています。
 一方、岩殿丘陵の地層は、日本列島が形成された直後に堆積したもので、サメの歯やサンゴ類などの化石のほか、奇獣として知られる哺乳類パレオパラドキシアの化石も産出しています。特に市内葛袋地区から産出した同化石については、同一地点からの産出数が世界ーと評価されています。
 また、市内岩殿周辺の塊状シルト岩は、1,200万年前に堆積したことが知られていますが、近年は古墳時代の石室石材に利用された痕跡なども指摘されておリ、市域の文化財に深くかかわる石材といえます。
およそ1,000万年前には関東平野内陸部の海が陸化し、300万年前には日本列島が東西から圧力を受け「関東山地」が隆起し、山地との境にあった市域には、河川による働きで物見山礫層が堆積しました。
 第四紀中期更新世(73~13万年前)の地層は、市内田木で認められ、モミやブナなどの植物化石を産出することから、当時の市域はやや冷涼な時代で 一部針葉樹を伴う落葉広葉樹林が広がっていました。
 第四紀後期更新世(13~1万年前)は、河川の働きによって台地が形成された時代で、段丘礫層からは湧水が生じ、河岸段丘の上に風成層である関東ローム層が堆積しました。市内石橋に所在する塚原遺跡からは、29,000~26,000年前に降ったとされるAT(姶良丹沢火山灰層)よリ下に石器が確認されておリ、これが市域に人類が生活した痕跡が確認された最古の事例です。
高坂丘陵地区の地層断面
 出展:住宅都市整備公団資料「高坂」より
 本地区の地質は、表層がローム層で、その下は2層の粘土層と3層の礫層よりなる物見礫層となっており、支持力は大きいものです。谷戸部は沖積層で、3m以上のヘドロの堆積箇所はあまりみられず、谷戸部の地質としては、比較的安定しています。(但し、中丸池上部は他に比べ比較的深い)また、関越自動車道の工事においても、 地盤沈下はみられず、本地区の地盤は安定しています。