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 2023.9/28更新

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高坂氏館

比企の城館めぐり-1
たかさかしやかた  
掲載2020.8/20  
 別名「高坂城」とか「高坂刑部館」「高坂陣屋」「加賀爪氏陣屋」と呼ばれています。築城年代は定かではないが、南北朝時代の観応年間(1350年〜1352年)には高坂刑部大輔の居館であったという。今に至る「高坂」の地名の源となっていったところだ。現在の高済寺にその遺構が残っているので訪ねた。
 
 高坂氏館土塁
 「埼玉県選定重要遺跡」指定とのこと。都畿川河岸段丘の上にあり、段丘の下は都幾川リバーサイドパークとなっている。天然の要害を生かした立地だ。
結構な高さの土塁の先は空堀があったとのこと。土塁は近年整備されたあずま町に抜ける道路まで延びているがその先は駅前住宅街となり、今は面影はない。
 土塁の上からの眺め。大きな木々が伐られているので、結構な高さが実感できる。
都幾川リバーサイドパーク側から土塁を見上げると、空堀もわかり、また河岸段丘の急峻な崖も実感できる。
 案内板にはわかりやすい説明があり、長い間要衝であったことがわかる。
   
 城山稲荷
 「高坂城」とも言われていたので・・・か、土塁の下に城山稲荷がある。お稲荷さんなので寺の境内にある神社。
   
 加賀爪氏累代の墓
 昭和五年「埼玉県指定旧跡」土塁の一段高い北端にある。
 現地案内板より転記
 加賀爪氏は、徳川家に仕えて禄高一万石を領し、この地に陣営をおいた領主です。しかし、天和元年(1681年)に加賀爪氏は、その家禄を断絶させられました。
 加賀爪政尚は、徳川家康に仕え、長久手の戦、小田原征伐に戦功があり、比企と相模国高座(神奈川県高座郡)に三千石を領しました。加賀爪忠澄は、関ヶ原の戦、大阪の役に戦功があり五千五百石を領し、江戸町奉行に登用されました。加賀爪直澄は、旗本中の乱暴者として通ったようですが、書院番隊長、寺社奉行等を勤めました。また、茶道にも通じていたらしく、鶴陽舎一明、別に、名月庵鑑とも号していたと伝えられています。
 加賀爪氏は、直澄の代に成瀬氏との間で領地問題をおこし、天和元年(1681年)に領地を没収されています。
   注)現地案内板は年号の誤記があり修正記載 =長い間修正されていないと思われる
 
 高済寺
 曹洞宗のお寺。号を法音山多門院。
 山門
 本堂
 
 石橋
 高坂氏館(高済寺)の河岸段丘下には市指定歴史資料の石橋が往時のままあります。
   
明治17年の2万分の1古地図によると、高坂氏館土塁は今より南に長くある。余談だが、この当時の都幾川の蛇行はすごい。今は都畿川リバーサイドパーク内に蛇行の痕跡の水辺がある。
   
  撮影 2020.8/20